② 何もなかった夏は、本当に何もなかったか
みなさん、こんにちは。
愉快な記事ではないかもしれませんが、続けます。
➀の記事はコチラです⤵
trailtravel8hureai.hatenablog.jp
気持ちの整理をつけないと、次に進めないような気がしますので。
どうか、お付き合いいただければ。
抗がん剤治療が始まり、終わる
医者は「効果がなく、苦痛を増やす」と言って勧めませんでしたが、ぼくは父に抗がん剤治療を受けてもらうことにしました。
治療は一週間に一度抗がん剤を投与し、それを3回行うと一週間休み、これが1セット。
6月中旬に第1回目の投与が行われました。
副作用が心配されましたが、見た目には変化がないようです。
相変わらず、ぼくたちは昼ごはんは病室ではなく、病院内にあるレストランでとりましたし、時々外出もしました。
痛み止めの薬からくる吐き気がありましたが、その他はほとんど普段と変わりません。
しかし、一週間後に行われるはずの第二回目の投与はいつになっても行われません。
退院の許可もおりません。
投与から10日ばかりたったころ、医者から話がありました。
「いろいろな数値がかなり悪化している。
正直、ここまで抗がん剤のダメージがあるとは思わなかった。
これ以上の治療は危険。残された日を安らかにすごす方がいい」
退院、そして入院
父はその後、退院しましたが、それは希望のない退院でした。
この時が7月上旬。
がんが発見されてから1ヶ月ですが、このあたりから父の状態は急速に悪くなっていきます。
がんが肺に転移したことで、呼吸がしにくくなり、苦しそうです。
足もむくんで、腫れてきました。
それでも痛み止めが効いている時は、冗談も言い、孫と遊んだりもしました。
涼しい朝には、家の周りを散歩もしたし、調子のいい時は食欲もありました。
しかし、退院してから2週間ほどたった夜、母がぼくを呼ぶ声が聞こえました。
父はトイレに行こうとして、動けなくなり、母が必死で父を支えています。
左脚が動かなくなり、立ち往生していたのでした。
ゼイゼイと激しい息の合間に、「苦しい」と言っています。
脳梗塞の疑いがあったので、救急車を呼び、入院していた病院の救急外来へ搬送されました。
父の頼み
父は自分が末期がんであることは知っているので、これが恐らく最後の入院であることは自覚していました。
ぼくは自宅に手すりをつけようと言うと、「つけなくていい」と答えました。
医者の説明はこうでした。
「がんの転移が早く、肺にも達していて、既に片方の肺は機能していない。
なので、常に溺れているような苦しい状態。
苦痛が激しくなれば、眠らせる薬を使うが、
この体力では、再び目覚めることはないかもしれない」
(ちなみに、この「眠らせる薬」というのは文字通り睡眠させる薬で、鎮痛剤です)
そして父も、苦痛が大きくなれば、その眠らせる薬を希望していました。
ぼくの同意があれば、ということで。
ぼくは同意しました。
もちろん、「耐えられないような苦痛がくれば」という条件付きで。
そして、その時はまだまだ先だと、ぼくは思っていたのです。
③へつづく
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