③ 何もない夏は、本当に何もなかったか
みなさん、こんにちは。
前回は、父が抗がん剤治療を始め、中止したこと。
父の願いとして、苦痛がひどくなったら、眠らせる薬(鎮痛剤)を使用したいといったことを書きました。
trailtravel8hureai.hatenablog.jp
医者の話では、父の体力だと、この薬を使うと目覚めない可能性があるとのこと。
ぼくは使用に同意しましたが、それはもっと先のことだと思っていたのです。
医者からの電話
7月18日にいったん東京に帰り、それから一週間もしない7月25日のこと。
仕事中に医者から電話がありました。
「もう何日も持たない。
まだ話せるうちに会っておいた方がいい」
ぼくはもちろん驚きました。
なぜなら、「その日」はまだまだ先だと思っていたからです。
たとえ、余命6ヶ月としても、それは12月末でしたから。
最後の夜
病院に行ってみると、父は重篤患者用の病室に移され、酸素マスクをつけています。
しかし、電話から予想されたような切迫した状態からは、程遠いように見えました。
会話もできますし、冗談も言います。食べることもできます。
それまで妹が病室に泊まり込みで世話をしていたため、今日からぼくが代わりに泊まることにしました。
最初の夜は、父は呼吸が苦しくなって目覚めたりもしましたが、2日目・3日目の夜はよく眠っていました。
さらに、日中は食欲も出たらしく、ミカンを一つ、アイスクリーム半カップ、これに卵焼き、牛肉などを少しづつ食べ、阪神タイガースの野球中継を見て楽しみました。
こんな調子だったので、4日目の夕に父から「眠らせる薬」を使いたいと言われた時は、本当に驚いてしまいました。
医者も、妹もそれに賛成しています。
ぼくはそれが理解できませんでした。
ここ2日、あんなに調子がよかったじゃないか、なのになぜ、このタイミングでそんなことを言うのか。そして、なぜ周りもそれに賛成するのか。
もう二度と目覚めないかもしれない薬を、なぜこんなに簡単に使おうとするのか。
父は、ぼくの言葉を黙って聞いていました。
結局、医者は「もう少し頑張りましょう」と言いました。
ぼくが反対したからです。
その夜。
父は何度も起き上がり、ベッドから這い出ようとしました。
血液中の酸素濃度が低下して、苦しいのです。
いつもなら、少し落ち着いていれば80%ほどに回復するのですが、この夜は50%台まで低下することもあり、また、回復するのも時間がかかりました。
父は、ゼイゼイと息をつきながら、ぼくにいろいろと喋ろうとするのですが、そうするとさらに酸素濃度が低下するので、ぼくはかなり厳しく黙るように言いました。
「明日になったら、眠らせる薬を使っていいか」と父が言います。
ぼくは、うんうんと頷きました。
そして、窓の外が少し白み始めたころ、看護士が来て、父の血圧や体温を測ってくれます。
正常でした。
ぼくは安心しました。
その、まさに数分後、医者と数名の看護師が病室にどやどやと入ってきます。
みな、固い顔をして、父の体に何やら器具を取り付けました。
そしてその直後、父は死んでしまいました。
ぼくはただ茫然と、何が起こったのか理解できないまま、、その光景を見続けていました。
書いていて、少し苦しくなったので、長くなりますが次回に続けます。
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