③ 何もない夏は、本当に何もなかったか
みなさん、こんにちは。
前回は、父が抗がん剤治療を始め、中止したこと。
父の願いとして、苦痛がひどくなったら、眠らせる薬(鎮痛剤)を使用したいといったことを書きました。
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医者の話では、父の体力だと、この薬を使うと目覚めない可能性があるとのこと。
ぼくは使用に同意しましたが、それはもっと先のことだと思っていたのです。
医者からの電話
7月18日にいったん東京に帰り、それから一週間もしない7月25日のこと。
仕事中に医者から電話がありました。
「もう何日も持たない。
まだ話せるうちに会っておいた方がいい」
ぼくはもちろん驚きました。
なぜなら、「その日」はまだまだ先だと思っていたからです。
たとえ、余命6ヶ月としても、それは12月末でしたから。
最後の夜
病院に行ってみると、父は重篤患者用の病室に移され、酸素マスクをつけています。
しかし、電話から予想されたような切迫した状態からは、程遠いように見えました。
会話もできますし、冗談も言います。食べることもできます。
それまで妹が病室に泊まり込みで世話をしていたため、今日からぼくが代わりに泊まることにしました。
最初の夜は、父は呼吸が苦しくなって目覚めたりもしましたが、2日目・3日目の夜はよく眠っていました。
さらに、日中は食欲も出たらしく、ミカンを一つ、アイスクリーム半カップ、これに卵焼き、牛肉などを少しづつ食べ、阪神タイガースの野球中継を見て楽しみました。
こんな調子だったので、4日目の夕に父から「眠らせる薬」を使いたいと言われた時は、本当に驚いてしまいました。
医者も、妹もそれに賛成しています。
ぼくはそれが理解できませんでした。
ここ2日、あんなに調子がよかったじゃないか、なのになぜ、このタイミングでそんなことを言うのか。そして、なぜ周りもそれに賛成するのか。
もう二度と目覚めないかもしれない薬を、なぜこんなに簡単に使おうとするのか。
父は、ぼくの言葉を黙って聞いていました。
結局、医者は「もう少し頑張りましょう」と言いました。
ぼくが反対したからです。
その夜。
父は何度も起き上がり、ベッドから這い出ようとしました。
血液中の酸素濃度が低下して、苦しいのです。
いつもなら、少し落ち着いていれば80%ほどに回復するのですが、この夜は50%台まで低下することもあり、また、回復するのも時間がかかりました。
父は、ゼイゼイと息をつきながら、ぼくにいろいろと喋ろうとするのですが、そうするとさらに酸素濃度が低下するので、ぼくはかなり厳しく黙るように言いました。
「明日になったら、眠らせる薬を使っていいか」と父が言います。
ぼくは、うんうんと頷きました。
そして、窓の外が少し白み始めたころ、看護士が来て、父の血圧や体温を測ってくれます。
正常でした。
ぼくは安心しました。
その、まさに数分後、医者と数名の看護師が病室にどやどやと入ってきます。
みな、固い顔をして、父の体に何やら器具を取り付けました。
そしてその直後、父は死んでしまいました。
ぼくはただ茫然と、何が起こったのか理解できないまま、、その光景を見続けていました。
書いていて、少し苦しくなったので、長くなりますが次回に続けます。
次回の記事はこちら
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② 何もなかった夏は、本当に何もなかったか
みなさん、こんにちは。
愉快な記事ではないかもしれませんが、続けます。
➀の記事はコチラです⤵
trailtravel8hureai.hatenablog.jp
気持ちの整理をつけないと、次に進めないような気がしますので。
どうか、お付き合いいただければ。
抗がん剤治療が始まり、終わる
医者は「効果がなく、苦痛を増やす」と言って勧めませんでしたが、ぼくは父に抗がん剤治療を受けてもらうことにしました。
治療は一週間に一度抗がん剤を投与し、それを3回行うと一週間休み、これが1セット。
6月中旬に第1回目の投与が行われました。
副作用が心配されましたが、見た目には変化がないようです。
相変わらず、ぼくたちは昼ごはんは病室ではなく、病院内にあるレストランでとりましたし、時々外出もしました。
痛み止めの薬からくる吐き気がありましたが、その他はほとんど普段と変わりません。
しかし、一週間後に行われるはずの第二回目の投与はいつになっても行われません。
退院の許可もおりません。
投与から10日ばかりたったころ、医者から話がありました。
「いろいろな数値がかなり悪化している。
正直、ここまで抗がん剤のダメージがあるとは思わなかった。
これ以上の治療は危険。残された日を安らかにすごす方がいい」
退院、そして入院
父はその後、退院しましたが、それは希望のない退院でした。
この時が7月上旬。
がんが発見されてから1ヶ月ですが、このあたりから父の状態は急速に悪くなっていきます。
がんが肺に転移したことで、呼吸がしにくくなり、苦しそうです。
足もむくんで、腫れてきました。
それでも痛み止めが効いている時は、冗談も言い、孫と遊んだりもしました。
涼しい朝には、家の周りを散歩もしたし、調子のいい時は食欲もありました。
しかし、退院してから2週間ほどたった夜、母がぼくを呼ぶ声が聞こえました。
父はトイレに行こうとして、動けなくなり、母が必死で父を支えています。
左脚が動かなくなり、立ち往生していたのでした。
ゼイゼイと激しい息の合間に、「苦しい」と言っています。
脳梗塞の疑いがあったので、救急車を呼び、入院していた病院の救急外来へ搬送されました。
父の頼み
父は自分が末期がんであることは知っているので、これが恐らく最後の入院であることは自覚していました。
ぼくは自宅に手すりをつけようと言うと、「つけなくていい」と答えました。
医者の説明はこうでした。
「がんの転移が早く、肺にも達していて、既に片方の肺は機能していない。
なので、常に溺れているような苦しい状態。
苦痛が激しくなれば、眠らせる薬を使うが、
この体力では、再び目覚めることはないかもしれない」
(ちなみに、この「眠らせる薬」というのは文字通り睡眠させる薬で、鎮痛剤です)
そして父も、苦痛が大きくなれば、その眠らせる薬を希望していました。
ぼくの同意があれば、ということで。
ぼくは同意しました。
もちろん、「耐えられないような苦痛がくれば」という条件付きで。
そして、その時はまだまだ先だと、ぼくは思っていたのです。
③へつづく
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① 何もなかった夏は、本当に何もなかったか
みなさん、こんにちは。
前回の記事、「金の竹、キンメイチクの里へ」のアップが7月15日のことですから、はや2ヶ月近くたちました。
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何もなかった夏
この間、ブログはもちろんのこと、山や旅に関わる活動は何もしていません。
関東ふれあいの道も、5月20日の群馬の旅以来、全く進んでいません。
(埼玉県境は、もう目前の位置まで来たのですが・・・)
去年行けなくて、今年こそ行こうと思っていた、北アルプス最奥部の雲ノ平にも。
今年は挑戦しようと思っていた南アルプスの縦走にも。
2015年から毎年出ていた「分水嶺トレイル」もDNS(出場せず)。
友人と一緒に行く予定だった「東海自然歩道トレイルマラニック」も同じ。
楽しみにしていた2年に一度の「TJAR」スタッフも辞退。
毎年のように友人たちが集まり、同窓会のような「白馬国際トレイルラン」も参加しませんでした。
父のがん
その理由は、父に末期のがんが見つかったからです。
本人から電話がかかってきたのが5月の末。
ステージ4のすい臓がん。肝臓や肺にも転移していて、余命6ヶ月と宣告されたとのこと。
ぼくは驚くというより、全く信じられず、実感もありませんでした。
なぜなら、数週間前のGWに会った時は、全く元気でしたし、
いま、電話から聞こえてくる声だって張りがあって、とても余命宣告されたような人の話しぶりには思えない。
来週、もっと大きな総合病院で再度検査を受けるというので、とりあえず半信半疑ながら、実家へ戻ることにしました。
なぜそんなことを言うのか
実家の父は、やはり元気に見えました。
ぼくは、精密な検査をすれば、もっとちがう結論が出るのではないかと感じました。
なので、どちらかと言うと、楽観的な気持ちで病院に付き添ったのです。
しかし、結論は全く逆でした。
「もうこの段階では、治療をしてもムダ(もっと抑えた表現でしたが)。できるだけ苦痛を与えず過ごさせてあげたほうがいい」と医者は言うのです。
なぜそんなことを言うのか。
人並み以上に顔色も良く、精力的にしゃべり、冗談を言い、早足で歩く、まだ70才になったばかりの男が、もう手遅れの状態にあるとは、とても信じられませんでした。
例え、がんだとしても、抗がん剤や、放射線や、手術や、いろいろな手段の治療があるではないか。
なぜ、それすらムダだと言うのか。
医者の言っていることは理屈ではわかりましたが、心の底では理解できませんでした。
残された時間
とはいえ、医者の言うことを信じるなら、残された時間はそう長くありません。
ぼくはできるだけ、仕事を休んで実家に帰りました。
節約のため、夜行バスで往復しました。
夜行バスで寝て、そのまま出勤するのはかなり疲れます。
ふれあいの道や、山行や、大会なども全て中止して、最大限の時間を父のために使うことに決めました。
余命宣告が正しいならば、「その日」は12月ごろ。
しかし、もっと伸びるかもしれない。
ひょっとしたら、余命6ヶ月といいながら、2年・3年と生きるかもしれない。
ぼくはそう思っていました。
病院の食事がおいしくないというので、ぼくたちは病院内のレストランや、時には外に食べに行ったりしました。
父は何を食べてもいいといわれていたのです。
なじみの散髪屋に行ったり、近所をドライブしたりもしました。
確かに、元気とは言えないかもしれませんが、それでも数か月後には死んでしまうとは思えませんでした。
②へつづきます。
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金の竹 キンメイチクの里へ
(写真:「いにしえの文化のみち」敷島のキンメイチク)
みなさん、こんにちは。
(= ´ ω `)ノ
前回は赤城山を後にし、雪のトレイルを下り深山(みやま)バス停までの旅を書きました。
前回の旅はコチラ⤵
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いよいよ、赤城山を後にし、上毛三山の第二の山、榛名山のふもとまでやってきました。
榛名を眺めながら
さて、10時10分に深山バス停に到着し、少し休憩をと思っていたのですが、何しろ何もない場所。
しかも寒い。
ということで、すぐに次の「いにしえの文化のみち」に出発することに。
このルートは、ここから赤城神社までの10km少々。
途中、敷島のキンメイチクという不思議な竹があるらしいです。
赤城神社からは、その近くのJR敷島駅まで行って今回の旅は終わりの予定。
バス停からは、緩やかな登りが続きます。
登り続けると、こんな風景が!
ゴミがいっぱい。
不法投棄です。
道の反対側には、冷蔵庫がいっぱい。
まだまだある。
黄色いのは何だろう。工事用の器材か?
なんだか腹が立ってくる。
と同時に、悲しくなってくる。
実は、ふれあいの道ではこんな光景をたくさん見ています。
車が入れるような舗装道が伸びている里山は、こんな感じになっていることが多い。
関東ふれあいの道は、誰でも簡単に自然を楽しんでもらえるように、アクセスしやすいルートが設定されています。
しかし、それゆえに、心無い人のアクセスも容易です。
確かに、日本を代表するような山岳地帯では、このような不法投棄はあまり見かけません。
しかし、普通の里山ではこれが現実。
有名・無名、高山・低山を問わず、すべてのトレイルでこのようなことが起こらないよう、人々の意識が高まればいいのですが。
さて、ここを過ぎると、見晴らしの良い場所に出ました。
はるか前方に、榛名の山並みが見えます。
道は下りに変わります。
榛名のふもとの一番低くなっている谷間が、今回の目的地、JR敷島駅あたりでしょうか。
さらに下り続けると、立派な道路に出ました。
新たに整備された農道のようです。
この農道を進むと、関東自動車道をまたぎます。
冬枯れした景色の中を、車が高速で走りすぎて行きました。
この日の朝には、熊の足跡の残る雪の山道を歩いていたと思えば、景色の変化になんだか不思議な感じもします。
キンメイチクの里で
関東自動車道を越えると、これまでの殺風景な様相とは打って変わり、のどかな里の風景が現れます。
まだ実の残る柿の木に、赤いトタン屋根の民家。
枯れ葉に覆われた道端、遠くに見える山並み。
何となく心が落ち着きます。
立ち並ぶ庚申塔、そして仲良くふれあいの道の道標が立っていました。
お互い妙にマッチしているのが面白い。
この庚申塚の立つ辻を曲がると、神社が現れました。
神社のわきに建つ赤い屋根の建物は、この地域で古くから伝わる人形劇が演じられる舞台です。
今も祭りの折には演じられていると聞きました。
そして、神社を挟み、赤い建物の反対には小さな竹やぶが。
これはもしや・・・
そうです。
国指定天然記念物、敷島のキンメイチクでした!
竹やぶの前に、解説板があります。
ふむふむ・・・
「節ごとのくぼみに、平行に黄色の模様が規則正しく並んでいます」
どれどれ・・・
おおっ!
∑(゚Д゚)
たしかに、規則正しく色の違う節が!
それはまさに、金色に輝いているようでした。
少しツヤ消し気味の、紛れもない金色!
いぶし銀ならぬ、いぶし金!
かぐや姫の話に出てくる金色の竹も、こんな感じだったのでしょうか?。
しかし、見れば見るほど不思議。
説明板によれば、一度絶滅寸前になったということですが、復活して良かった!
キンメイチクを後にすると、後はこのルートの終点、赤城神社に向かいます。
この標識は、ほとんど見えない…
到着しました赤城神社。
名前からはもっと大きな神社を予想してましたが、意外にもこじんまりしてます。
こんなものがありました。
ソロバン玉のような石が取り付けられていて、回数を忘れないようになっている。
本殿はこれです。
精巧な彫刻が一面にされています。
表情が豊かで、見ていて飽きません。
すごく楽しそう。
傾きはじめた太陽の光が眩しい。
5分ほどで敷島駅に到着。
電車の時間があるので、近くの温泉に行きました。
そして、風呂あがりはビール!
(=´∀`) プハー
いつ飲んでも、旅の終わりの一杯は最高!
飲みながら、Oさんと、今回の旅を振り返ります。
昨夜の焚き火と鍋は楽しかったなぁ…
焚き火で鍋をした記事はコチラ↴
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さて、時間がきたので敷島駅に戻ります。
食券機みたいな券売機がおもしろかった。
日暮れ前のホームで列車を待ちます。
そして、旅の終わり。
とうとう、赤城山を越えました。
ホームからは、目の前に榛名の山並みが広がっています。
次回は、あの山塊を越えるのか。
どんな旅が待っているんだろう。
そんなワクワク感を抱きながら、線路の向こうに暮れていく景色を眺めていました。
次回は、榛名のふもと、伊香保温泉を通り、榛名へ向かう旅のことを書きますね。
次回の旅はコチラ⤵
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最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
ではまた。
(^-^)ノ バイバイ
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雪のトレイルを行く 赤城を後に
(写真:「カラマツと熊笹のみち」で見つけた「山」?の標識)
みなさん、こんにちは。
( ^ ω ^ )ノ
前回は、赤城公園キャンプ場でビバークをしたところまで書きました。
水炊きを食べ、ホットウイスキーを飲んで、楽しい夜でした。
前回の旅はコチラ⤵
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今回は、赤城山を後にし、西に向かって人気のないトレイルを進み、榛名山を目指す旅のことを書きますね。
ルート図です。
赤城公園キャンプ場を出発して「カラマツと熊笹のみち」に入り、赤城キャンプ場を経て深山(みやま)バス停までの雪のトレイルの旅です。
凍てつく朝に
7時に赤城公園キャンプ場を出発するために、まだ暗い時間からツェルトをたたみます。
刺すように冷たい朝。
普段なら、ぼくは山の朝は総菜パンで済ませてしまうのですが、今回はOさんが立派な朝食を作ってくれました。
ソーセージとキャベツを炒めて、
美味しそうなサンドイッチの出来上がり!
(*´ω`*) 美味しかった!
Oさんのおかげで、豊かな朝になりました!
次第にあたりが明るくなってきます。
湖面はやはり、ガチガチに凍っているようです。
どのくらい厚く張っているのかな。
こぶし大の石を、投げ入れてみました。
すると、「ゴツン!」という音を立て、そのままスイーっつと滑っていきました。
どうやら、相当頑丈な氷のようです。
向こう岸まで、歩いて渡れそう。
あたりはすっかり明るくなりました。
さあ、出発です。
雪のトレイルをゆく
大沼を後にし、西へと向かい榛名を目指します。
湖畔から5分ほど歩くと、トレイルの入り口でした。
さあ、どんな道が待っているんでしょう。
まずは、緩やかで歩きやすいトレイルが続きます。
雪は積もっていたり、積もっていなかったり。
徐々に山深く、登り下りが大きくなっていきます。
人の気配は全くありません。
見つかるのは、雪の上にしるされた動物の足跡だけ。
おっと、これは・・・
クマの足跡だ!
進むにつれて、道は荒れた感じに。
動物たちの領域に、お邪魔させていただいているといった感じ。
下り続けていくと、やがて人工物が見えてきました。
橋だ!
ふれあいの道の道標も発見。
深山バス停までは、まだ遠い。
雪の中を縫うようにして、沢が流れていました。
冷たそうだなあ。
沢を離れ、再び登り返します。
面白いものを見つけました。
( ´・ω・)? 「やま?」
どういうことだろう、「山」としか書いてない。
ここが山ってことは、別に言われなくても分かるんだけど?
何か意味があるのかな?
誰か知ってる人教えてください。
(じつは、ほかの場所でも同じ標識を見たことがあります)
道はやがて、緩やかな下りに変わります。
そして程なく、林道に出てトレイルは終わりました。
人里へと下る
9時10分、赤城キャンプ場に到着。
冬季は休業中なので、誰もいません。
ここからは、積雪もなく、舗装された林道をひたすら西へと進んでいきます。
30分ほど歩くと、民家らしきものが見えてきました。
どうやら、深山(みやま)の集落に到着したようです。
ぼくは、山から下りてきて里に出る、この瞬間も大好きです。
やはり山は、人間にとっては「お邪魔させていただいている」場所なんですね。
本能的に山を神聖視し、あるいは異界として見るような感情が、ぼくの心にもあるようです。
それゆえに、人里に降りてくると、人間の領分に戻ってきたという安堵を感じる。
この緊張と弛緩の組み合わせが、山の醍醐味であり、旅の魅力ではないかと思います。
集落は静まり返っていました。
しかし、その静けさは、山の中で感じる静けさとは全く違う種類のものでした。
集落を進んでいくと、その中心部に、深山バス停はありました。
ここで、「カラマツと熊笹のみち」は終了。
10時10分でした。
次回は、ここからさらに西に進み、榛名山を臨む敷島駅までの旅を書きますね。
次回の旅はコチラ↴ trailtravel8hureai.hatenablog.jp
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
それでは、また。
(^ω^)ノ バイバイ
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真冬のキャンプ 赤城大沼
みなさん、こんにちは。
(^ω^)ノ
関東ふれあいの道一周の旅も、いよいよ群馬の中核部、上毛三山(赤城山、榛名山、妙義山)の縦走に入りました。
前回は、わたらせ渓谷から赤城山の最高峰である黒檜山を越え、大沼までたどり着いたところまでを書きましたね。
前回の記事はコチラ⤵
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今回の旅の全体図です。
こう見ると、かなり旅してきたと実感。
一周まで残り1/3ぐらいかな。
今回の旅の細部ルートはこちらです。
前回終了した赤城ビジターセンターからスタート。
覚満淵のほとりを進み、小沼から地蔵岳に登った後、再び大沼に下り、この日は赤城公園キャンプ場でビバーク。
翌日は大沼から約12kmの山道、「カラマツと熊笹のみち」に入り、深山(みやま)バス停まで。
さらに山を下り、関越自動車道を越え、国の天然記念物にもなっているキンメイチクを見た後、赤城神社へ。これは「いにしえの文化のみち」約10kmです。
最後は、JR敷島駅でゴール。
今回は、友人のOさんが一緒に旅してくれました。
Oさんは焚き火台を持ってきてくれるとのこと。
これは夜のビバークが楽しみです!
(=^ω^)ノ 期待
ということで、2017年の年の暮れ、12月23日から24日にかけて旅をしました。
地蔵岳の首なし地蔵
前回の終了地点、赤城ビジターセンターに到着したのは12時10分
自宅を朝7時前に出発し、5時間以上の道のりです。
このあたりが、東京をぐるりと取り囲む関東ふれあいの道の最遠点でしょう。
(もう一つの最遠点は、恐らく千葉の太平洋岸)
ここから、覚満淵に沿った道に入ります。
覚満淵の由来は、5世紀ごろ、覚満法師というお坊さんが、この沼の周りで7日7夜の大法会を行ったことにちなむそうです。
すっかり凍っていました。
沼の上に積もった雪に、ウサギでしょうか、動物の足跡が点々と連なっていました。
覚満淵のほとりを抜けると、笹薮の中の細い登り道となり、しばらく行くと小沼を見降ろす場所に出ます。
小沼とありますが、なかなか大きい。
大沼と同じく、火山噴火による火口湖です。
湖面は白く、鈍い光を放っていました。
きっと、凍りついているのでしょう。
ここからは、地蔵岳に向かう登りです。
薄く雪が積もっていますが、木段があるので登りやすいです。
あまりきつい登りではありません。
Oさんと喋っている間に、いつの間にか頂上が見えてきました。
いつしか、抜けるような青空が広がっていました。
地蔵岳の頂上からは、大沼が一望できます。
そして、向かいに見えるのは、前回の旅で登った黒檜山。
こうして、来た道を思い返すのは、感慨深いものです。
しかし、振り返ると、そこには衝撃的な光景が!
地蔵岳の名にふさわしく、そこには6体のお地蔵さまが。
しかし!!
なんと、どのお地蔵さまも、首がない!
Σ( Д )!
首の代わりに、どれも石が乗せてあります。
これは一体どういうことなんでしょうか??
6体そろってというのも妙です。
なので、自然に取れたのではないと思いますが、だとすると、誰かがもぎ取ったのでしょうか?
結局、わからないままに山頂を後にしました。
水炊き鍋の夜
さて、今日の予定は、地蔵岳から大沼へ下り、あとは赤城公園キャンプ場で野営するだけでした。
大沼方面への下山道を下ります。
大沼への下りは、北斜面になっているので雪が多いです。
明るい林の中を通りながら、車が通る道路まで下りました。
舗装道路もかなり凍結していました。
カーブで減速できず、車両が衝突する事故を目の前で見たたほどです。
そして大沼に到着。
湖面は、完全に凍ってる。
キャンプ場は、この向かい側の岸にあります。
ゆるゆると、大沼に沿って歩くこと15分。
赤城公園キャンプ場に到着。
ここは何と、無料のキャンプ場です。
さらにいい点は、普通のキャンプ場は冬季は閉鎖になることが多いのですが、ここは年中利用できることです。
すでに、何組かのキャンプ客が、テントを張っています。
冬の夜は早い。
ぼくたちも早速ツェルトを張り、夜の準備を始めました。
いつも、ツェルトを張るときは、なんだか心が躍ります。
ツェルトへの思いはコチラ⤵
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Oさんが焚き火台を持ってきてくれたので、今夜は火を囲みつつ、鍋にしましょう。
火がいい感じになってきた。
やがて日も暮れ、夕食の時間となりました。
持ってきた鶏肉と白菜・ネギを鍋に入れ、焚き火で煮込みました。
Oさんは、牛肉とマカロニのチーズ和えを作ってくれます。
(^ω^) うまい!
そして、食後にはモチ!
これもうまい!
そしてもちろん、ホットウイスキー。
焚き火があるだけで、こんなに豊かな夜です。
夜になり、気温はかなり下がってきましたが、火に当たっていると安心感が違います。
それに、炎の揺らぎを見ていると、なんだか心が落ち着いて、幸せな気持ちになってくるのが不思議です。
夜も更けてきました。
ウイスキーが切れたころ、ぼくたちはそれぞれの寝床に入りました。
幸せな夜でした。
ちなみに、火から離れると極寒です。
ツェルトの内部は細かい氷と霜が一面に張っていましたよ。
((( ´ Д`)) うー、寒い!
まだ身体に焚き火のぬくもりが残っているうちに、シュラフに潜り込んで眠ってしまいましょう。
おやすみなさい。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
次回は、赤城大沼を後にして、榛名山方向へ下る旅のことを書きますね。
次回の旅はコチラ⤵
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それでは、また。
( ´ ∀`)ノ バイバイ
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子連れ登山時の判断について 五頭連峰の遭難に思う②
どうぞ読者に!⤵
みなさん、こんにちは。
前回、五頭連峰での遭難事故について、道迷いの点から記事を書きました。
前回の記事です⤵
もちろん、道迷いは遭難につながる大きな危険です。
しかし、前回の記事を書いた後、あの痛ましい遭難は、必ずしも単純な道迷いだけが原因ではないと強く感じるようになりました。
なので今回は、あの事故をもたらしたもう一つの要因について考えてみたいと思います。
その要因とは、小さなお子さんを連れた登山だったということです。
子供と一緒に登る山は素晴らしいものです。
ぼくもよく、子供と山に登ります。
しかし一度、途中で夜になってしまったことがありました。
娘はその時小学6年生でした。
もちろん、明るいうちに下山するよう登山計画は作成していたのですが、最後の行程を1時間ほど残して日没となってしまったのです。
幸い、既に下山ルートの稜線に乗っており、尾根を外さず下るだけの道でしたが、初めてのルートでしたし、秋ということで落ち葉が積もっており道が分かりにくく、非常に慎重に進んだ記憶があります。
娘は、ぼくのあとをぴったりついてきます。
しかし、初めて経験する山の夜です。その闇の深さ、静けさ、不気味さに怯えている様子がひしひしと伝わってくる。
ぼくが道を確認するために立ち止まり、あたりを見回すと、父が道に迷っているのではないかと疑うのでしょう。とても不安な表情を見せます。
夜の山を30分ほど歩くと、
「おとうさん、まだ着かないの?」と聞いてきます。
その声はもう、涙声です。
ようやく登山道が整備された階段に変わり、樹木の向こうに里の灯りが見えた時、娘の顔に笑顔が戻りました。
しかし、それは娘だけではなく、ぼくも同じです。
心から、ホッとしたのを覚えています。
ぼくは、この1時間ほど、相当緊張していたのでした。
単独行では何度も夜の山を経験していましたが、この時は、全く違う種類の緊張と不安を感じました。
その理由は、大きく二つあると思います。
一つは、「子供を不安がらせてはいけない」という気持ちです。
子供は敏感ですから、親が不安な気持ちでいるとすぐに見抜きます。
道を確かめるために立ち止まり、あたりを見回すだけで、子供は強い不安を感じます。
このため、ぼくは、あからさまに道を確認することを避けてしまいました。
こんな状態で、もし、本当に道に迷った場合、それを子供に言えるでしょうか?
あるいは、もと来た道を引き返すことができるでしょうか?
「お父さんが道に迷った」
ただでさえ不安な子供にとって、これは耐えられないほどの恐怖でしょう。
子供を不安にさせたくない、親として当然感じるその気持ちが、本来の判断を遅らせた、あるいは誤らせたかもしれません。
第二に、「早くこの状態から子供を救ってやりたい」という気持ちです。
前回の記事でも書いたように、道に迷った時に下り続けてはいけません。
登り返し、尾根線まで出ることが大事です。
しかしそれは、単純に言ってしまえば再び山を登ることであり、つまり、子供にとっては下山が遠ざかることに他なりません。
「おとうさん、まだ着かないの?」
と涙声に尋ねる子供を目の前にして、もういちど登り返すよ、と告げることは心情的にかなり辛いことです。
もしかすると、このような状態が二人にも生起したかもしれません。
この二つの要因は、登山技術や知識といったものとは、また別の要素が含まれています。
単独行であればためらうことなく立ち止まり、時間をかけてあたりを確認し、再び登り返すことを選んだかもしれません。
もしかすると、そうしなかったのは、子供を思いやる父の気持ちがあったのではないでしょうか。
重なり合って倒れていたというお二人の状態からは、そのような気持ちが強く感じられます。
もちろん、それを踏まえても、正しい判断をすべきなのは言うまでもありません。
ただし、子供を連れて山に登るときは、「子供を不安がらせたくない」、「この状態から早く救ってやりたい」、という気持ちが、正しい判断を誤らせることがあるということを頭に入れておくべきでしょう。
さらに言えば、子供の体力は大人とは比べ物になりません。
登山のような行動では、それが顕著に表れます。
コースタイムは標準タイムの3倍になることもありますし、登山の後半からは疲れも出て登り返すことも困難になるかもしれません。
子供との登山は素晴らしいものです。
同じように汗を流して山を登り、同じ絶景を見るという体験は、何ものにも替え難い思い出となるでしょう。
しかし、その裏には、単独行や大人同士の登山とは、また別のリスクがあり、判断を狂わせる別の要因があるということを理解しておくことが必要だと思います。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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