温泉の夜 伊香保の夜
(写真:「榛名から水沢のみち」:伊香保温泉の石段街)
みなさん、こんにちは。
(= ´ ω `)ノ
2018年1月6日~7日の旅の続きです。
前回の旅はコチラ⤵
trailtravel8hureai.hatenablog.jp
今回の旅のルート図です。
敷島駅から伊香保を経て榛名を越え、妙義山を臨む松井田駅までの約70kmの旅です。
今回は何と、いつものツェルト野営ではなく、温泉に宿泊する計画です!
(*´ω`*) わくわく
まずは露天風呂
さて、伊香保に到着したので、まずは街の中心部へ。
有名な石段街の入り口です。
この石段を登ると、頂上には伊香保神社があります。
その途中に、幾つもの飲食店や旅館、土産物屋が軒を連ねている。
この華やかさは、一日一人で旅をしてきた身には心地よく感じます。
砂漠を越えてきた旅人が、オアシス都市に入るとこんな気持ちになるのかも。
夕方の喧騒にもまれながら、そんなことを考えました。
多くの文人墨客が、この石段街を愛したということです。
与謝野晶子の詩が刻まれていました。
「ローマ時代の、野外劇場のごとく」と石段街を歌っています。
ちょっと大げさなような気もしますが、詩人ならずとも歌ってみたくなるような風情のある町並みです。
石段は365段。
登りきると、伊香保神社です。
ぼくも、今日の旅の無事を感謝してお参り。
鳥居の向こうには、越えてきた赤城の山並みが見えました。
今回の旅で楽しみにしていたことの一つは、伊香保の公衆露天風呂に入ることでした。
地図によれば、神社の先、少し山側にあるはずです。
神社の裏に回ると、たしかに道が続いていました。
川には、温泉水が流れているんでしょうか。
色がもう、すっかり温泉です。
道の途中に、温泉が飲める場所がありました。
さすが、温泉街だなぁ。
この道を、行き止まりまで歩くと、ありました。
公衆露天風呂です。
なかなか、情緒たっぷり。
湯の中では写真は取れませんでしたが、なかなかいいお風呂でした。
みんな旅館の湯に入るんでしょうか、人は少なかったです。
でも、こんなにいい風呂に入らないのはもったいない!
しかもたった450円だし、皆さんも伊香保を訪れたならぜひ。
石段街を歩く
露天風呂を出ると、街は人気がなくなっていました。
ほんの一時間前までは、あんなに賑やかだった石段街が、すっかり静かに。
ぼくは石段を下りながら、ゆっくりと店を眺めて歩きました。
灯りが暖かい。
かわいい下駄が並んでいます。
欲しくなりました。
たまにはお土産でも買って帰ろうか。
それとも、射的でもして、遊んでみようか。
いつものふれあいの道の旅とは異なり、そんな気持ちにもなりました。
街の中心部から離れるにしたがい、自分の足音が響いて聞こえます。
さて、今夜の宿営地(?)へ向かいましょう。
もうツェルトには戻れない?
ここが本日の宿営地、「黄金の湯館」です。
(この写真は翌朝撮ったものです)
日帰り温泉で、通常は1000~2400の営業ですが、深夜特別営業日というのがあって、その日は翌朝0800まで利用できます。
今回は、その日を利用して、ここで一晩過ごすことにしました。
まずは夕食です。
食堂へ行きましょう。
今日は11時過ぎに敷島駅を出発して以来、ほとんど何も食べていなかったので、腹ペコです。
迷いましたが、カレーを食べることに。
食べ終わると、ようやく落ち着きました。
そして大浴場へ。
先ほど露天風呂に入ったばかりですが、何度でも入る!
風呂から上がると、大広間でくつろぐことにします。
さいわい、人があまりおらず、ゆっくり過ごせそうです。
風呂上がりの一杯は、大好物の唐揚げと一緒に。
(*´ω`*) 最高!
一杯やりながら、地図を見る。
地図を見ていると、いくらでも酒が進む。
(*´Д`) プハー
ツェルトなら今頃、震えて寝袋に入っているころだな。
こりゃ、もうビバークには戻れない!
と、いい気分になっていると、どやどやと20名以上の団体がやってきた。
あっという間に大広間が占領されました。
そのうるさいこと、うるさいこと。
ぼくは追い出される形で、大広間を後にしました。
やっぱり、ツェルト野営もいいとこあるかもね。
まだ眠るにはもったいなかったので、少し館内をウロウロ。
卓球台もあります。
その向こうに見える部屋は、読書ルーム。
ソファとマンガ本や雑誌が置いてあります。
でっかいプーさんが座っていました。
なんだか、不満げな表情だな。
キミも大広間がうるさくて困ってるのか。
そうこうしているうちに、眠くなったので、シアタールームに移動。
壁の向こうからは、まだ大広間の騒ぎ声が聞こえてくる。
( ;´Д`) ハァ・・・
いつまでやっているのか、と思いつつ、いつしか眠ってしまいました。
まあ、こういう騒音系のストレスは野営にはないかな。
とはいえ、それを除けば大いに満足しつつ、ぐっすりと休んだのでした。
とはいっても、ツェルトの旅はやっぱりいいよ⤵
trailtravel8hureai.hatenablog.jp
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
次回はこの翌日の旅、黄金の湯を出発し、榛名へと向かう旅を書きますね。
次回の旅はコチラ⤵
trailtravel8hureai.hatenablog.jp
それでは、また。
(= ´ ω ` )ノ バイバイ
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伊香保温泉を目指して
(写真:「榛名から水沢のみち」伊香保温泉の街並み)
みなさん、こんにちは。
( ^ω^ )ノ
ずいぶん間隔があいてしまいましたが、再びふれあいの道一周の旅です。
前回の旅はコチラ⤵trailtravel8hureai.hatenablog.jp
ということで、上毛三山の一つ、赤城山を越え、いまや榛名山が目の前に !
いよいよ群馬ルートの核心部へと迫ります。
全体図はコチラ⤵
今回は、敷島駅から、温泉で有名な伊香保を通り、さらに榛名山を越えて、一気に妙義山のふもとまで行ってみようと思います。
残すところ、群馬もあと少し。
いよいよ旅もクライマックス!
で、今回の旅の詳細図です。
まず、初日は、敷島駅から子持神社を経て北群馬橋までの約11.5Km、「子持山若人のみち」
北群馬橋からは、伊香保の手前まで続く「しぶかわのみち」8.5Km。
ここから「榛名から水沢へのみち」に合流し、この日は伊香保で一泊。
今回は、せっかく温泉街に泊まるということで、ツェルトで野宿ではなく、温泉で一泊する計画です。
2日目は、「榛名から水沢のみち」の残り、伊香保からヤセオネ峠まで行き、ヤセオネ峠からは「榛名山へのみち」にはいります。
さらに榛名神社を下りて「道祖神のみち」に入り、双体道祖神まで進んだのち、最後に「山菜のみち」へ。
風戸峠を越え秋間梅林の手前でルートは終了。
ただし、その後は自力で松井田駅まで進んで電車に乗る予定でした。
2日あわせて約70Kmの道のりです。
2018年1月6日~7日にかけて旅しました。
赤城と榛名のあいだで
さて、到着しましたJR敷島駅。
ホームの向こうには、榛名山が。
凸凹した山なみが冒険心を掻き立てます。
山のふもとに見える白い街並みが、今日の目的地の伊香保でしょうか。
準備を整えて、11時15分に駅を後にしました。
「子持山若人のみち」の起点は、駅から北に1.5kmほど行った、井熊バス停です。
ここです。
ここから、道を渡り、山のほうへ。
こんな感じの道が続きます。
道ばたに、いくつも石仏が点在していました。
なかでも、この像は表情がユーモラス。
悪友(おやじ)っていう感じ。
次第に雪が多くなってきました。
子持神社に到着。
道が凍っていて、結構滑る。
しかし、寒いなぁ・・・
冷気で空気が澄んでいて、景色がクリアに見えます。
振り返れば、懐かしい赤城の山並み。
山を下っていくと、子持神社の松並木が現れます。
この広々とした道を下っていくと、雙林寺という大きなお寺に到着。
七不思議があるらしい。
さらに進むと、見晴らしの良い原っぱのような場所に出ました。
榛名山がよく見えます。
説明板が立っていて、そこには黒井峯遺跡とあります。
約1500年前の古墳時代、ここには集落があったのですが、榛名山の大噴火によって瞬時にして灰に埋もれてしまったらしいのです。
まるで日本のポンペイ。
赤城山も火山なんですよね。
しばし古代の人の視点になって、両側にそびえる山なみを眺めました。
この二つの勇壮な火山の間で、古墳時代の人たちは、どんな暮らしをしていたんでしょう。
いざ伊香保温泉へ
黒井峯遺跡を2kmほど行くと、「子持山若人のみち」も終わりです。
細い路地を通り抜けると、ルート終点の北群馬橋に到着。
13時25分でした。
そのまま、次のルートの「しぶかわのみち」に入ります。
最初の見所は、甲波宿禰(かわすくね)神社
山の神の神社は多数ありますが、この神社は全国でも珍しい、川の神を祭った社とのこと。
なるほど、だから「かわすくね」神社という名前なんだ。
やがて道は、すっかり人の気配がなくなりました。
どこからか奇妙な音楽が聞こえてくる。
なんだろう?
ちょっと不気味な感じです。
道の脇に、巨大な墓地がありました。
どうやらここから聞こえてくるようです。
白い墓石が、整然と並んでいました。
さらに行くと、西群馬病院という所に出ます。
立派な病院ですが、奇妙なほど静かです。
どうやら、廃病院のよう。
なんだか、このルートは寂しい・・・。
先を急ぐことにします。
いや、別に怖いとかじゃありませんよ・・・。
ようやく、人の気配がある場所に出ました。
伊香保グリーン牧場です。
ちょっと、一安心。
お腹が減っていたので、「MouMou焼き」を食べようかどうか迷いましたが、我慢することに。
代わりにザックからチョコレートを出して口に入れます。
渋川市総合運動公園の入り口に着きました。
大きな公園です。
クロスカントリーコースもありました。
今日は、一日中舗装道ばかりだったので、ちょっとでも土の道はありがたい!
この公園を抜ければ、伊香保の町までは3kmほど。
もう目と鼻の先です。
ちょっと暗くなってきましたが、明るいうちに伊香保に到着するでしょう。
そして、16時過ぎ、ようやく伊香保の街に着きました。
さて、温泉に入るぞー!
(^ω^)
ということで、次回は伊香保温泉の夜について書きますね。
旅の続きはコチラ⤵trailtravel8hureai.hatenablog.jp
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
ではまた。
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奇怪な「山海経」の世界
みなさん、こんにちは。
( ゚Д゚)/
「山の本、旅の本」の紹介です。
これまでに、「黒部の山賊」と「八甲田山死の彷徨」の話をしました。
trailtravel8hureai.hatenablog.jp
trailtravel8hureai.hatenablog.jp
今回紹介する「山海経」はこの2冊とは全く異なる本です。
「黒部の山賊」も「八甲田山」も、山でおこった体験談、実話をもとにしたエッセイ、物語です。
しかしこの「山海経」にはそういったストーリー性や現実性は全くありません。
ただただ、空想上の土地に存在する、空想上の生物・種族について淡々と解説するというスタイルの本です。
そもそもこれが「山の本、旅の本」といえるかどうかも怪しい。
「・・・南海の外、赤水の西、流砂の東に獣がいる。左と右に首あり。名はチュッテキ。三匹の青い獣が互いに(一つになって)くっついている。
・・・羽民の国あり、その民はみな羽毛を生やす。卵民の国あり、その民はみな卵を生む」
こんな調子で、延々と奇怪な土地の解説と文物、人獣の説明が続きます。
小説のように最初から最後まで通して読むと、とてつもなく退屈な本ですが、適当にページを開いてチラ見すると大変面白い。
昔の人は、こんな世界に取り囲まれていると信じていたんでしょう。
旅をする時はどんな気持ちだったんでしょうか。
きっと、恐れとともに、とてつもない好奇心に駆り立てられていたに違いない。
そう想像すると、古代の旅人のドキドキ感やワクワク感を身近に感じます。
ぼくがこの本を好きな理由です。
この本は、人獣の絵が添えられているのも楽しい。
こんな感じです。
右上は、三身国の人。
一つの頭に三つの体があるという、極めてファンキーないでたち。
ぜひ、後ろがどうなっているのか見てみたい。
(お尻は一体いくつに割れているのか?)
その左下が、形天(ぎょうてん?)
むかし争いに負けて首を切られ、おっぱいを目に、へそを口に変えられたらしい。
罰とはいえ、悪ふざけにもほどがある。
その割には、結構楽しそうな様子で何よりです。
そして、ぼくのおすすめがこれ。
ていこう君。
こんなふうに書かれています。
「・・・さらに西に三百五十里、天山といい、金・玉多く青雄黄あり。・・・神がいる。その姿は黄色い袋のごとく、赤いことは丹の火のよう。六つの足、四つの翼、こんとんとして顔も目もないが、この神は歌舞にくわしい。まことこれぞ帝・江である」
踊りや歌が得意な神らしいのですが、お尻に足が生えているとしかみえない。
しかもまんまるとして、絵からもモッチリ感が伝わってくる。
翼があるけど、絶対飛べないだろこれ。
山で見つけたら、絶対ハグしますね。
やわらかそうだし・・・
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本の話ならコチラもどうぞ⤵
ではまた。
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④(終わり) 何もない夏は、本当に何もなかったか
みなさん、こんにちは。
もう3回にわたり、父のことを書いていますが、今回で最後です。
前回は、父が死んでしまったところまで書きました。trailtravel8hureai.hatenablog.jp
今も残る自責の念
正直に言うと、今でも自責の念に駆られて、思い出すと苦しくなります。
ぼくのせいで、父は不必要な苦痛の中で死んだのではないかと考えます。
鎮静剤を使いたいといった父に反対したのはぼくだけでした。
医者も、母も、妹もみな父に賛成していたのです。
しかしぼくには、この数日、夜もよく眠り、アイスクリームも食べ、阪神タイガースの試合もテレビで一緒に見ていた父に対し、二度と目覚めないような薬を使うことは、どうしても賛成できなかったのです。
また、今から思えば、ぼくは心のどこかで、「父は死なない」と思っていたのかもしれない。
無意識のうちに、子供のころに抱いていた、「強くて、スーパーマンのようなお父さん」のイメージを、捨てきれなかったのかもしれません。
そして考えたこと
父の死の直後は、葬式のこと、相続のこと、残されたさまざまなことなど、片付けていかなければならないことが山ほどあって、目も回るような忙しさでした。
それに加え、ぼくは夏に転勤があり、それに伴って引越しもあり、単身赴任も始まりましたから、もう無我夢中です。
聞くところによると、人間がストレスを感じる3大イベントとして、肉親の死、引越し、転職があるらしいです。
ぼくの場合、それらが全て同時に来たので、正直言って父の死を悲しんだりする余裕がありませんでした。
そしてようやく、つい最近、四十九日の法要も済ませ、父の死についてゆっくりと考えることができるようになりました。
ぼくは幸いに、父の最後の2ヶ月において、非常に密接な時間を過ごすことができました。
しかし、それはやはり限られた時間であって、父はその与えられた時間が過ぎると、一人で行ってしまった。
そこから先は、ぼくは一緒に行けないのです。
よく考えてみると、同じように、ぼくが生まれる前の父の人生の前半でも、ぼくは父とは一緒にいなかったのです。
そう考えると、例え身内であっても、最初から最後まで一緒にいることはできない。
もちろん、一緒にいる間は、かけがえのない素晴らしい時間を共有しているのですが、それはやがて終わり、また一人で歩いていかなければならない。
そしてまた、誰かと出会い、一緒に歩いて、そしてまた、ある時がくれば別々の道に分かれていく。
そう考えると、やはり人生は旅と似ているのかもしれません。
いろんな人と出会いながら、結局は一人で歩き続けなければならない。
人生を旅に例えることは、よく聞くフレーズです。
しかし、父の死を目の当たりにし、ここから先は一緒に歩いていけないという事実を体感すると、その使い古されたフレーズが、何とも意味深く感じられました。
旅に意味はあるか
もし人生が旅だとするなら、それに意味はあるのでしょうか。
父の旅に意味があったかどうか、ぼくにはわかりません。
ぼくは、ほんの一部分、父の旅に同行したに過ぎないからです。
自分の旅の意味を知ることができるのは本人だけで、
旅の最後に、これまでの道を振り返った時、知ることができるのでしょう。
父の旅の意味や価値は、父にしか分からないとしても、
ぼくが理解できるのは、この人はずいぶん遠い道を旅してきたこと。
そして、目的地に着いたのだということです。
旅の途中で、どんなことがあったのかは知るよしがなくとも、
その事実だけで、父の旅には意味や価値があったのだと、ぼくは信じます。
歩き続けること、そして何らかの目的地に到達すること。
これがあるからこそ、最後に振り返った時、旅に何らかの意味を見出すことができるのではないでしょうか。
だからぼくは、父が最後の日々を迎えて、自分の旅に何らかの意味を見出したのだと思います。
それを知ることはできませんが。
何もなかった夏は、本当に何もなかったか
こう考えると、この何もなかったかに見える夏は、多くのことがあったような気がします。
少なくとも、父の旅の最後の行程に、同行できた。
そして、旅の意味について、もう一度考えることができました。
実は、父の死後、関東ふれあいの道一周をやめようと思いました。
2014年の12月に開始し、もう4年。
ずいぶん長く続けてきました。
しかし、何らかの目的地に到着することが、旅に意味を与えるとするならば、ここでやめてはいけないと考えました。
そしてそれは、この旅を始めたときにも、そう考えていたのです。
trailtravel8hureai.hatenablog.jp
この時ぼくは、「目的地があり、始まりがあって、終わりがある」ことが旅だと考えていました。
だとすると、ここで旅を止めるわけにはいかないのでしょう。
ましてや、父の旅の終わりに同行した夏を契機に、止めてしまうわけにはいかない。
何もなかった夏は、ぼくにとっては多くのものを得た夏でした。
長い記事でしたが、最後まで読んでいただき、どうもありがとうございました。
次回からは、これまで通りの記事に戻ります。
ではまた。
③ 何もない夏は、本当に何もなかったか
みなさん、こんにちは。
前回は、父が抗がん剤治療を始め、中止したこと。
父の願いとして、苦痛がひどくなったら、眠らせる薬(鎮痛剤)を使用したいといったことを書きました。
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医者の話では、父の体力だと、この薬を使うと目覚めない可能性があるとのこと。
ぼくは使用に同意しましたが、それはもっと先のことだと思っていたのです。
医者からの電話
7月18日にいったん東京に帰り、それから一週間もしない7月25日のこと。
仕事中に医者から電話がありました。
「もう何日も持たない。
まだ話せるうちに会っておいた方がいい」
ぼくはもちろん驚きました。
なぜなら、「その日」はまだまだ先だと思っていたからです。
たとえ、余命6ヶ月としても、それは12月末でしたから。
最後の夜
病院に行ってみると、父は重篤患者用の病室に移され、酸素マスクをつけています。
しかし、電話から予想されたような切迫した状態からは、程遠いように見えました。
会話もできますし、冗談も言います。食べることもできます。
それまで妹が病室に泊まり込みで世話をしていたため、今日からぼくが代わりに泊まることにしました。
最初の夜は、父は呼吸が苦しくなって目覚めたりもしましたが、2日目・3日目の夜はよく眠っていました。
さらに、日中は食欲も出たらしく、ミカンを一つ、アイスクリーム半カップ、これに卵焼き、牛肉などを少しづつ食べ、阪神タイガースの野球中継を見て楽しみました。
こんな調子だったので、4日目の夕に父から「眠らせる薬」を使いたいと言われた時は、本当に驚いてしまいました。
医者も、妹もそれに賛成しています。
ぼくはそれが理解できませんでした。
ここ2日、あんなに調子がよかったじゃないか、なのになぜ、このタイミングでそんなことを言うのか。そして、なぜ周りもそれに賛成するのか。
もう二度と目覚めないかもしれない薬を、なぜこんなに簡単に使おうとするのか。
父は、ぼくの言葉を黙って聞いていました。
結局、医者は「もう少し頑張りましょう」と言いました。
ぼくが反対したからです。
その夜。
父は何度も起き上がり、ベッドから這い出ようとしました。
血液中の酸素濃度が低下して、苦しいのです。
いつもなら、少し落ち着いていれば80%ほどに回復するのですが、この夜は50%台まで低下することもあり、また、回復するのも時間がかかりました。
父は、ゼイゼイと息をつきながら、ぼくにいろいろと喋ろうとするのですが、そうするとさらに酸素濃度が低下するので、ぼくはかなり厳しく黙るように言いました。
「明日になったら、眠らせる薬を使っていいか」と父が言います。
ぼくは、うんうんと頷きました。
そして、窓の外が少し白み始めたころ、看護士が来て、父の血圧や体温を測ってくれます。
正常でした。
ぼくは安心しました。
その、まさに数分後、医者と数名の看護師が病室にどやどやと入ってきます。
みな、固い顔をして、父の体に何やら器具を取り付けました。
そしてその直後、父は死んでしまいました。
ぼくはただ茫然と、何が起こったのか理解できないまま、、その光景を見続けていました。
書いていて、少し苦しくなったので、長くなりますが次回に続けます。
次回の記事はこちら
trailtravel8hureai.hatenablog.jp
② 何もなかった夏は、本当に何もなかったか
みなさん、こんにちは。
愉快な記事ではないかもしれませんが、続けます。
➀の記事はコチラです⤵
trailtravel8hureai.hatenablog.jp
気持ちの整理をつけないと、次に進めないような気がしますので。
どうか、お付き合いいただければ。
抗がん剤治療が始まり、終わる
医者は「効果がなく、苦痛を増やす」と言って勧めませんでしたが、ぼくは父に抗がん剤治療を受けてもらうことにしました。
治療は一週間に一度抗がん剤を投与し、それを3回行うと一週間休み、これが1セット。
6月中旬に第1回目の投与が行われました。
副作用が心配されましたが、見た目には変化がないようです。
相変わらず、ぼくたちは昼ごはんは病室ではなく、病院内にあるレストランでとりましたし、時々外出もしました。
痛み止めの薬からくる吐き気がありましたが、その他はほとんど普段と変わりません。
しかし、一週間後に行われるはずの第二回目の投与はいつになっても行われません。
退院の許可もおりません。
投与から10日ばかりたったころ、医者から話がありました。
「いろいろな数値がかなり悪化している。
正直、ここまで抗がん剤のダメージがあるとは思わなかった。
これ以上の治療は危険。残された日を安らかにすごす方がいい」
退院、そして入院
父はその後、退院しましたが、それは希望のない退院でした。
この時が7月上旬。
がんが発見されてから1ヶ月ですが、このあたりから父の状態は急速に悪くなっていきます。
がんが肺に転移したことで、呼吸がしにくくなり、苦しそうです。
足もむくんで、腫れてきました。
それでも痛み止めが効いている時は、冗談も言い、孫と遊んだりもしました。
涼しい朝には、家の周りを散歩もしたし、調子のいい時は食欲もありました。
しかし、退院してから2週間ほどたった夜、母がぼくを呼ぶ声が聞こえました。
父はトイレに行こうとして、動けなくなり、母が必死で父を支えています。
左脚が動かなくなり、立ち往生していたのでした。
ゼイゼイと激しい息の合間に、「苦しい」と言っています。
脳梗塞の疑いがあったので、救急車を呼び、入院していた病院の救急外来へ搬送されました。
父の頼み
父は自分が末期がんであることは知っているので、これが恐らく最後の入院であることは自覚していました。
ぼくは自宅に手すりをつけようと言うと、「つけなくていい」と答えました。
医者の説明はこうでした。
「がんの転移が早く、肺にも達していて、既に片方の肺は機能していない。
なので、常に溺れているような苦しい状態。
苦痛が激しくなれば、眠らせる薬を使うが、
この体力では、再び目覚めることはないかもしれない」
(ちなみに、この「眠らせる薬」というのは文字通り睡眠させる薬で、鎮痛剤です)
そして父も、苦痛が大きくなれば、その眠らせる薬を希望していました。
ぼくの同意があれば、ということで。
ぼくは同意しました。
もちろん、「耐えられないような苦痛がくれば」という条件付きで。
そして、その時はまだまだ先だと、ぼくは思っていたのです。
③へつづく
trailtravel8hureai.hatenablog.jp
① 何もなかった夏は、本当に何もなかったか
みなさん、こんにちは。
前回の記事、「金の竹、キンメイチクの里へ」のアップが7月15日のことですから、はや2ヶ月近くたちました。
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何もなかった夏
この間、ブログはもちろんのこと、山や旅に関わる活動は何もしていません。
関東ふれあいの道も、5月20日の群馬の旅以来、全く進んでいません。
(埼玉県境は、もう目前の位置まで来たのですが・・・)
去年行けなくて、今年こそ行こうと思っていた、北アルプス最奥部の雲ノ平にも。
今年は挑戦しようと思っていた南アルプスの縦走にも。
2015年から毎年出ていた「分水嶺トレイル」もDNS(出場せず)。
友人と一緒に行く予定だった「東海自然歩道トレイルマラニック」も同じ。
楽しみにしていた2年に一度の「TJAR」スタッフも辞退。
毎年のように友人たちが集まり、同窓会のような「白馬国際トレイルラン」も参加しませんでした。
父のがん
その理由は、父に末期のがんが見つかったからです。
本人から電話がかかってきたのが5月の末。
ステージ4のすい臓がん。肝臓や肺にも転移していて、余命6ヶ月と宣告されたとのこと。
ぼくは驚くというより、全く信じられず、実感もありませんでした。
なぜなら、数週間前のGWに会った時は、全く元気でしたし、
いま、電話から聞こえてくる声だって張りがあって、とても余命宣告されたような人の話しぶりには思えない。
来週、もっと大きな総合病院で再度検査を受けるというので、とりあえず半信半疑ながら、実家へ戻ることにしました。
なぜそんなことを言うのか
実家の父は、やはり元気に見えました。
ぼくは、精密な検査をすれば、もっとちがう結論が出るのではないかと感じました。
なので、どちらかと言うと、楽観的な気持ちで病院に付き添ったのです。
しかし、結論は全く逆でした。
「もうこの段階では、治療をしてもムダ(もっと抑えた表現でしたが)。できるだけ苦痛を与えず過ごさせてあげたほうがいい」と医者は言うのです。
なぜそんなことを言うのか。
人並み以上に顔色も良く、精力的にしゃべり、冗談を言い、早足で歩く、まだ70才になったばかりの男が、もう手遅れの状態にあるとは、とても信じられませんでした。
例え、がんだとしても、抗がん剤や、放射線や、手術や、いろいろな手段の治療があるではないか。
なぜ、それすらムダだと言うのか。
医者の言っていることは理屈ではわかりましたが、心の底では理解できませんでした。
残された時間
とはいえ、医者の言うことを信じるなら、残された時間はそう長くありません。
ぼくはできるだけ、仕事を休んで実家に帰りました。
節約のため、夜行バスで往復しました。
夜行バスで寝て、そのまま出勤するのはかなり疲れます。
ふれあいの道や、山行や、大会なども全て中止して、最大限の時間を父のために使うことに決めました。
余命宣告が正しいならば、「その日」は12月ごろ。
しかし、もっと伸びるかもしれない。
ひょっとしたら、余命6ヶ月といいながら、2年・3年と生きるかもしれない。
ぼくはそう思っていました。
病院の食事がおいしくないというので、ぼくたちは病院内のレストランや、時には外に食べに行ったりしました。
父は何を食べてもいいといわれていたのです。
なじみの散髪屋に行ったり、近所をドライブしたりもしました。
確かに、元気とは言えないかもしれませんが、それでも数か月後には死んでしまうとは思えませんでした。
②へつづきます。
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